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zoom RSS 「あの作品だけは是非、掲載してほしい」−「藤野先生」(魯迅)

<<   作成日時 : 2012/11/23 16:24   >>

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中国清朝の末期の1881年に生まれ
現在の中国の誕生前夜である1936年に
55歳の若さで没した魯迅は、
中国近代小説の旗手であると同時に
文芸評論、海外の著名作品の翻訳・紹介、
中国の本格的な文学史の編纂を行うなど
かの国の近代文学に多大な貢献をなした巨人である


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その一方、彼が生きた時代といえば
清朝が日清戦争に破れ衰退し行く中
孫文によって起こされた辛亥革命によって
古来から中国で行われていた王政を廃止し
民主主義を基本とする中華民国が誕生したものの

軍の実力者である袁世凱が大統領になると
軍政復古ともいうべき独裁政治を敷き
自由を求める政府関係者や知識人、
民衆を徹底的に弾圧した

そして彼が病死すると、
今度は彼の部下だった各地の軍人が
(中には張作霖のような馬賊出身者もいる)
覇権を争う群雄割拠の時代が到来する

こういう不安定な時代の流れの中
魯迅は、一貫して民衆による革命の必要性を説き
時に激しい弾圧を受けながら
その筆で新時代の精神を切り開いてゆくことを
やめようとしなかった人でもあった

彼は21歳のとき、当時の試験で留学生の資格を得ると
1902年、東京にやってきた。
ここで彼は2年ほど、中国留学生のための
弘文学院で日本語の習得に精励した後、
東京を離れ、東北の仙台で医学を1年半ほど学び
そしてふたたび東京に戻ると、
日本を始め、世界各国の著名な文学作品に没頭する

得意のドイツ語や習いたてのロシア語の原書を読み漁り
英語やフランス語の古典作品を翻訳するなど
本格的な文学活動を開始し、
それは帰国後に大きく開花する素地となる

注目すべきは、当時、一世を風靡していた
夏目漱石に傾倒したことである

後年、発表された彼の作品の全編に漂う
独特のユーモアと、人間存在に対する暖かさ
そしてどこまでも健全な視点と
時に息苦しいまでの理詰めの表現は
漱石からの深い影響を思わせる

たとえば彼の代表作である[阿Q正伝]
の出だしは以下のごときである

「私は阿Qのことを書こうとして
はたと困ってしまったのはその書名である
『伝』という物の名づけは複雑で
列伝、自伝、外伝、別伝、家伝、小伝・・・
などとあるが、残念なことに、今回は、どれも該当しない

「列伝」としても、ここには決して多くのエライ人は出てこない
「自伝」としたら、といっても私は決して阿Q自身ではない
「外伝」としても、「内伝」はどこにもない
「家伝」はといえば、彼は決してわが家系の者ではない
「小伝」にすると、それでは「大伝」は?ということになる
「本伝」はといっても、ここでは古典的な文章を使用してはいない

そこでやむなく「それはさておき、正伝に戻って」
という決まり文句を借用して「正伝」とするとこにする
・・・・・・・・」

こういうヒニカルで妙に理屈っぽいユーモアは
漱石の「草枕」を彷彿とさせずにはおかないものがある

さて彼の多面的な文学活動は
現在まで、多大な影響を与えているが、
日本人としてもっとも親しみを覚えるのは
彼が留学時代に、東京を離れて仙台に赴き、
そこの医学校で学んだ時の思い出を綴った
藤野先生」であろう

「・・・・・・・・・・
東京以外のところに行ってみたら?
そんな思いで私は、仙台に行き
そこの医学専門学校に入った
仙台には中国からの留学生はなく、
珍しかったのか、授業料は取られず、
みなが色々と世話をしてくれた。

解剖学を担当したのは、黒い顔の
痩せた先生で、八字ひげをはやし、
眼鏡をかけた藤野先生という人だった。
服の着方がとても乱暴で
時々、ネクタイをつけてこないこともあった

一週間ほどしたとき、
私はその藤野先生から呼ばれて言われた
「私の講義を君は筆記できるのかね」
「まあできます」
「もってきて見せたまえ」
私が講義のノートを持って行くと、
先生は受け取って2,3日たってから返してくれ、
これから毎週、持ってくるようにと言われた

返ってきたノートを見て私は驚嘆し、感激した
私のノートは始から終わりまで
赤インキで修正されていて、
筆記できなかった箇所は補足され
日本語の誤りまでちゃんと訂正されていたのだ。

先生は、講義が終わるまでずっとノートを見続けてくれた。

学年試験の結果、私は100人中、中ぐらいだった

しかし、その後、クラスの幹事が
私のノートを見て、成績がよかったのは、
藤野先生が事前にノートに印をつけて
出る問題を教えていたのではないかと
疑いをかけた手紙を書いてよこすということが起きた

私がこのことを先生や友人に話すと
みな非常に怒り、その幹事はみなから
攻撃されることになった

当時、中国は弱い国で、中国人は決して優秀ではなく
成績がいいわけがないと彼が考えたのは
無理もないのだろう

第2学期のとき、細菌の姿をスライドで
写しだしていたとき、休憩時間になって
何枚かの時事問題のスライドが写された
当時は日露戦争のときで、
日本がロシアに勝利する場面が出てきて
みんな拍手して喝采した。

その中に中国人のスパイが処刑される光景があった
それを大勢の中国人が現物していた
しかも、そのスライドを見ている教室に
中国人である私もいた。
「万歳!」とクラスの仲間達は歓呼して拍手したが
その声は私には特別、痛く響いた。

この仙台で私の考えはすっかり変わってしまった
2学年が終わると私は藤野先生を訪ね
医学の勉強をやめて
仙台を去るつもりだということを話した
先生は非常に驚き、
ありありと悲しみの表情を浮かべられた

仙台を発つ数日前、先生は私を自宅に呼んで
自分の写真を一枚くれた。
裏には「惜別」と書いてあった
先生は私の写真をほしいといわれたが
あいにく持ち合わせがなかった
また時々、手紙をくれたまえと言われた

帰国後、私はなかなか写真をとる機会がなく
また、不快なことが多すぎて、手紙を書くことが出来ず、
とうとう今日まで先生に写真も手紙も
出すことも出来ずにいる

だがどうしてだか知らないが、
私はよく先生のことを思い出す

私が師と仰ぐ人人の中でも
先生はもっとも私を感激させ、
激励してくださった一人である。
思うに先生の私に対する熱心な希望と教えは
小にして中国のためであり、
大にして医学のためであった

先生の人格は私の中で偉大である。
先生の名前は決して多数の人人に
知られてはいないけれども。


先生が直してくださったノートは
綴じ直して大切にしていたが、
引越しのときに紛失してしまった
しかし、先生がくださった写真だけは
今も私の自宅の机の向かいに掛けてある

いつも夜中に仕事に飽いて、疲れて
だるく眠けに誘われたりするとき
ふと顔を上げると燈の光の中に
先生の痩せた顔が浮かび上がる。

今にも話しかけてくるかのようである。

すると私はたちまち良心に目覚め
勇気が湧き上がってきて
また仕事に精を出すのである
・ ・・」

平明な言葉使いで
自身の思い出を綴ったこの小編の中に
魯迅という人の持つ限りないやさしが溢れている

この作品は、中華人民共和国が
建国されてからの一時期
中国の教科書に掲載されたが、
日本でもやはり掲載する教科書が後を絶たない

作者にとってもこの小編は
特別の想いがあったようで
生前、岩波文庫で選集を出版する際に
作者に作品の選択で意見を乞うたところ
どれを選んでもかまわないが、
『藤野先生』だけは必ず、載せてほしい

と語ったという話が残っている。

藤野先生で呼称された藤野厳九郎氏は、
当時の医学校が現在の東北大に編入された際に
郷里の福井に帰り、開業医として暮していて
彼の所在が判明したのは、魯迅の死後、
その名が広く知られるようになってからであるが
その後、氏の記念碑が郷里と東北大に建てられた

魯迅についても現在、かつて彼が学んだ東北大に
記念館、記念碑が建立され、
多くの中国人が来訪しているが
驚くべきことは、あの反日派の江沢民前総書記も
そこを訪れていることである。

原稿用紙にしてほんの10枚弱
自身の思い出を綴った魯迅の小編が
日中、両国の人人の心に
打ち込んだ楔のはかりがたい大きさを知る

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
お世話になります。とても良い記事ですね。
http://www.fetang.co...
2013/08/02 15:36

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