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zoom RSS 「大風に会い蛮軍みな溺死す」−遠い記憶・元寇「蒙古の第2回日本侵略」

<<   作成日時 : 2012/10/27 10:42   >>

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かなり前のことだが、
FMを聞いていたら
日本の古い歌謡曲や学校唱歌を
放送している番組があって
その中に、「元寇」という曲があった

軽快なマーチ風な曲調に乗って
歌われる歌詞は以下の通り

四百余州をこぞる 
十万余騎の敵
国難ここに見る
弘安四年夏の頃

なんぞ恐れんわれに 
鎌倉男子あり
正義武断の名
一喝して世に示す

多々良浜辺のえみし
そはなに蒙古勢
傲慢無礼もの
ともに天を戴かず

いでや進みて忠義に 
鍛えしわがかいな
ここぞ国のため
日本刀を試しみん

こころ筑紫(つくし)の海に
浪おしわけてゆく
ますら猛夫の身
仇を討ち還らずば

天は怒りて海は
逆巻く大浪に
国に仇をなす 
十余万の蒙古勢は

底の藻屑と消えて 
残るは唯三人
いつしか雲はれて 
玄界灘月清し

(作詞・作曲 永井建子)

明治25年に発表されたこの曲は
一応、軍歌ということになっているが、
何か当時の状況を
パノラマのような画面で展開したように
生き々々と描かれている

さて、文永11年の第1回襲来が
いわば蒙古にとって前哨戦とも
いうべきものであるのに対し
この歌にあるようにその7年後の
弘安4年の第2次襲来は、
まさに蒙古が本腰を入れて
日本に襲い掛かったものということができる

当時、蒙古は国名を元と改め
世祖であるフビライが王として君臨していたが、
フビライという人は、
日本を自国の支配下に置くということに
異常な執念を燃やし続けた人で

第1回遠征が不様な結果に終わるや
ただちに再遠征の準備を始めようとした

しかし、当時は元は
現在の中国である宋の攻略に
全力を挙げていた頃だった

あの巨大な帝国の攻略に
元は、既に8年もの歳月を費やしていたが
日本への第1次遠征と前後して
元は、北部の主要都市から
順々に攻略して行き

日本への第1次遠征から4年後、
ついに南宋を滅ぼし、
ここで元は実質的な中国の王となった

この元の宋攻略がどのようなものであったかは
宋が降参し、城門をあけるときに

蒙古の兵の手にかかることを嫌い
城壁から身を投げし宮女、およそ6万」

という記録から類推される

この中原の大規模な侵略が成就し
実質的に東アジアの帝王となったフビライは
ただちに日本再遠征の準備を始める

高麗に対し前回同様900隻の
造船を命じると同時に
かつての宋に3500隻の軍船の
製作を命じた

そして実に慌しい話しであるが
宋が滅亡してからわずか2年後の1281年(弘安4年)
元軍、旧宋軍、高麗軍の
連合船団が日本に向けて
出帆することになる。

その外様たるや
東路軍(高麗兵中心) 900隻の軍船、兵士約4万
蛮軍(宋兵中心) 3500隻の軍船、兵士約10万

というとてつもないものだった

ただし高麗軍を中心とした東路軍が
5月2日に先駆けて出帆し、
蛮軍とは6月15日に壱岐の島で
落ち合うという算段だった

しかし先に壱岐に到達した東路軍は
効を急いで6月6日、
単独で博多攻略を開始する。

一方、日本側は、先の文永の役の教訓から
再遠征は不可避として
めぼしい沿岸のいたるところに
急ごしらえではあるが、
強固な石塁を築いていた。

これを見た東路軍は、
やむなく志賀島に本陣を引いたが
これが日本軍の狙う所となった

文永の役の反省から日本軍は
あくまでも敵を本土上陸をさせまいと
志賀島まで船を出し、敵の船に乗り移り
接近戦に弱い敵兵と果敢に渡り合った
また志賀島にも上陸し
ここでも一進一退の激しい戦いを展開した

このような日本側の強固な守りの戦闘に
東路軍は博多をあきらめ、
長門を攻略しようとしたが
ここにも石塁が築かれていて
上陸することはかなわなかった

6月6日に始まった戦いは13日まで続いたが
固い守りと海上の軍船に進んで船を出して
戦いを挑んでくる日本軍のため
思うような成果を出すことができず
ついに東路軍は単独での日本上陸をあきらめ
壱岐まで後退し、蛮軍の到着を待った

しかしその間にも日本軍は
壱岐まで舟を出し、戦いを挑んできた
このために、激しい戦いが壱岐においても
展開されることになった

そして総督の病気によって遅れること15日、
6月の末にようやく蛮軍が姿を現した。

東路と蛮軍、あわせて軍船4400隻が
一同に会すると
海上、ことごとく軍船で詰め尽くされ
さながら海の上に大森林が
出現したような錯覚さえおぼえる


しかしほぼ一ヶ月もの間、連合軍は
海上でぴくりとも動かない。
造船に使用した生木の腐敗と夏の猛暑により
船内に伝染病が発生し
戦い未だして倒れる者が続出し
十分に休養を取る必要があった

そして7月27日、突然、この艦隊は目をさまし
進路を鷹島に向けてとり、
この島を攻略してしまう。
そしてそのまま九州北部沿岸への
上陸に向けて進み始めた

そしてその後の日本の
歴史を変えた7月31日、
空が重い雲で覆われ
尋常でない風雨が唸りをあげて巻き起こる


この7月31日というのは
暦で言えば二百十日の直前にあたり
古来から激しい嵐が発生する時期に当たっていた

かくして文永の役とほぼ同質
あるいはそれ以上の台風が
北九州一体を襲い、悠然として
日本列島を縦断して行く

この凄まじい風雨と
それによって怒り狂ったような
巨大な荒波が蒙古の大船団を直撃する

さしも威容を誇った元連合軍の
無数の軍船も、この荒波によって
次次と瓦解し、海中に飲み込まれてゆく
このような状況は
翌日8月1日まで続いた

そして8月2日、日本軍が
海上を見るに
ほとんどの軍船は姿を消し
嵐によって帆を失い傷だらけとなった
わずか400隻ほどだけが
沖で漂っているという有様

そして日本の武士達を驚かせたのは
海に溺れ絶命し、入り江に漂着した
夥しい数の敵兵達の遺体だった。

当時の記録によれば
大風に会い
蛮軍みな溺死す
屍は潮の流れによって浦に入り
浦これがために塞がり
踏み行くをえたり


記録によれば連合軍のうち
元軍約10万、高麗軍約7000の兵士が
波に飲まれたのである

この嵐によって戦闘続行不可とみた
連合軍の主席達は、
残った船に乗り移ると
あっさとりと帰国の途についた。

一方、激戦のあった鷹島を始めとする
島々には帰りの船を失った
約2万の兵士達が残っていた。
日本軍は船団が消滅したことを知ると
彼ら残った兵士達に牙を剥いた

降伏し、命を懇願する彼らに
日本軍は情け容赦がなかった

日本の武士達の脳裏にあったものは
先の文永の役に行った
蒙古軍の各島の婦女子に対する蛮行
あるいは非戦闘民への残虐行為だった

日本軍は抵抗する者は殺傷し
降伏してきた兵士達については、
宋人を除いて全員の首をはねた

かくして元の第2次日本征伐も
無残な結果となって終わったのである

ところで世界中には
先進国からの侵略を受け
その文明を絶滅させるに至った
現地民の例が無数にある

南米のマヤ、インカ、アステカ
南太平洋の多くの島々
ここに住む人達の共通項は
その人間性の素朴さであり
機略縦横の白人達に
かなうべくもなかった

日本が島国だったとはいえ
今日にいたるまで他国の支配を
受けなかったのは
少人数で無数の艦隊に切り込んだり
元兵数万の捕虜全員を
処刑してしまうという例
に見られるように

日本人というものはその本質において
決して素朴ではなく

古来から無数の戦闘を繰り返し
つい最近まで有事になれば
果し合いもいとわず
仇討ちという復讐行為を是認し
時に自分の腹さえも切り刻む
強靭で勇猛な戦闘心を
持つ民族だったが故であると
考えるものである


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2013/07/08 10:07

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