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zoom RSS 海からの反日−遠い記憶・元寇「蒙古の第1回日本侵略」(10/20改訂)

<<   作成日時 : 2012/10/13 02:33   >>

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大規模な反日デモが発生した後を受けて
中国の各漁港では数千隻の漁船が
尖閣諸島近辺に向けて出港準備を始める。

中国各地で行われたデモが加熱し、
日系の建物が損害を受けるまでに
いたったのが9/15
その翌日の9/16の正午が、
東シナ海の禁猟解禁に
あたるという所を見ると
すでにある種の戦略的な
反日運動の一環としての構想
といったものを感じる

出港前の漁民は

「そこが自分の家である以上
どこでも漁はできる」


漁民はそう言ってはばからない
(もっともこのような発言の仕方は
一般の民間人というよりも
軍関係者のような口調ではあるが)

従って全土で加熱したデモの最中に
数千隻の漁船がのぼりの旗をなびかせて
尖閣に向かという報道がなされれば、
これは視覚的にも
強烈な国威発揚となる筈だった


しかし、9月半ば頃から東シナ海では、
季節はずれの台風が頻発し
9/16頃には大型の台風16号が
尖閣近辺に接近していて

出港どころではなかった

結果として出港したのは9/17で
実際に尖閣近辺の海域に到達したのは9/18

しかし、この頃には9/15のデモにより
多くの日系企業が
暴徒化した市民によって
建物の損害を受けたことが
世界中に配信され、
中国に批判が集中し

中国当局自身も、日系企業どころか
自身の共産党本部にまで
無数のデモが押しかけて
建物に投石するなど暴走し
治安部隊が、催涙ガスで鎮圧するという
異様な状況に慌てた政府が、
一転して国内のデモの鎮静化に
方向転換していた頃だった

従って勇猛な漁船団の
出港というシナリオは
完全に時期を逸してしまうことになった

さらに9/24、今度は台湾の有志という方々が
尖閣に向けて約100隻の漁船団を
出港するという挙に出たが
このときも台風が近辺に接近してきて
実際には30隻ほどの漁船が荒海の中を航行し
領海に侵入してデモンストレーションを行うに留まった

さてこのように尖閣に向けて
やっきとなった他国が
台風によって気勢をそがれる
という現象を見ていて、想起するのは

やはり鎌倉時代、
当時の大モンゴル帝国が
高麗(現在の韓国・北朝鮮)、宋(現在の中国)を
従え、大船団を編成して日本に侵略しながら
大型の台風によって無残な結果となった
あの元寇である

中国や韓国はしきりに
「日本人は歴史を知らない」
と発言しているので、そこで
当時の状況を再現してみる

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

中央アジアの一遊牧国でありながら
13世紀、突如として巨大な勢力となり
近隣諸国を次次に倒し
アジアはもとより
遠くロシアやヨーロッパにまで
制圧し尽くした大蒙古帝国は、
二度、大船団を組織して
日本を襲っている。

当初、蒙古は
「海の向こうの金銀に満ちた豊かな国」
という伝聞を耳にし、強い関心を示して
日本に使者を送り
文書で朝貢と服従を勧めたが、
アジアで蒙古がどれほど
巨大な力を発揮していたかなど
知る由もない鎌倉幕府は

「・・・・・・・・・・・
願わくは、もって親睦せん。
かつ聖人は四海を以って家と為す。
あに一家の理ならんや。
兵を用いるにいたりては、
それ誰か好むところぞ。
王それ之を図れ」

(親睦の要望に従わなければ
兵を差し向けるから言うことを聞け)

というその傲慢な内容に激怒し、
問答無用に使者を処刑してしまう

その後、蒙古は執拗に何度か
同様の使者を派遣したが、
日本が一向に帰属する意思を示さないため
「これは制圧せざるをえない」
とホゾを固める

ただその頃、蒙古は繰り返し
高麗への侵入を行っていて、
日本まで手が回らない状況だったが

その侵略というものが
どのようなものだったかといえば

この歳、蒙古兵に捉えられし男女
無慮27万余人、
殺戮されし者、計り知れず。
経る所の州群、みな灰燼と化す
兵荒以来、骸骨野を覆う


といった凄惨なもので、
このような侵略が実に30年に渡って
繰広げられていたのである。


その結果、ついに力尽きた高麗が
蒙古に服従する旨を表明すると、
当時の元首である世祖(フビライ)は
ついに懸案である日本制圧を具体化し、
至元11年、属国となった高麗へ
900隻の造船の命令を出す

蒙古の度重なる侵略によって
国中が荒廃し、無数の人命を失い
疲弊しきった高麗にとって、
これは過大な要求だったが、
背くこと、かなわず

とにもかくにも大小戦艦、900隻を
国中総出でほぼ半年の内に建造する。

これに約1万の高麗兵
他に蒙古5千、異民族1万5千
総計、ほぼ3万の兵士が乗り込み
1274年(文永11年)10月3日
日本に向けて出帆した。

一行はまずは、目先の対馬、
隠岐の島を襲う

両島とも、幕府の守護代は
果敢に防戦したが
衆寡敵せず、いずれも自害して果てている

蒙古の兵士達は一週間ほど、対馬に留まり
近隣の住民を襲い、狼藉の限りを尽くす

高麗史によれば、その結果として
「いたるところ屍が散乱する」
有様となる。

抵抗する男子は殺され、
女性は陵辱され、捕らえられ、
あるいは手に穴を開けて
数珠繋ぎに縄で
船の周囲に繋がれるという
無残極まりない有様となる。

この時点で、
日本も古来から
源平の抗争のように、
国内で絶え間のない戦闘を繰り広げてきたが
東アジアや西域の遊牧民のように
婦女子などの非戦闘員を
最初から略奪や虐殺の対象にする
という発想はなく

その無残な有様を
生き残った使者から伝え聞いた幕府は、
初めて異種の難敵と遭遇したことを知り
北九州全域の御家人を集結させて
これを迎え打つ準備を整える。

そして10月19日、ついに
蒙古の大船団は博多湾に出現し
日本軍と激突する。

蒙古軍は、てつほうといわれる飛び道具や
先に毒を塗った弓矢で日本軍を悩ませ
日本の武士達を圧倒したが、

当初、異民族の集団を中心とした
戦闘様式に戸惑っていた武士達も
しだいに侵略者の手の内が見えてくると
怯むことなく、敵陣に切り込んでゆき
多くの武将の首級を取り、
敵の副元帥に重傷を負わせている

激しい闘いは明け方から日没まで
あちこちで続けられたが、
日没後に蒙古軍は、
せっかく博多を攻略しながら
これを捨てて舟に戻ってしまう

これは第1日目のこの戦闘で
蒙古軍が、すでに厭戦気分に
なってしまった事による。

日本軍の抵抗が予想以上に厳しく
多くの負傷者を出し、損害も少なくない
ましてや副元帥の劉復享が
重傷を負っている

そういう状況から
蒙古の元帥達は弱気になり
とりあえず一時、
撤退することを決定する

(私見では、蒙古の首脳陣にとって
当時の日本軍のように、
集団で戦いながら
各武将達が、各小部隊ごとに独自に
攻撃を仕掛けてくる複雑な戦闘方法と
接近戦での日本刀による殺傷率の高さは
当時のアジアでは未見であり
はなはだ困惑したものと考えられる)

その夜半、突如、
尋常でない風が巻き起る。

現在で言うところの大型の台風が
船団の逗留する博多湾を直撃したのである

激しく咆哮するような暴風雨に
蒙古船団の多くが、もろくも波に飲まれ
夥しい兵士が溺死してしまう

一夜明けてみると、
さしも威容を誇った900隻の船団も
そのほとんどが遭難し、
見る影もない無残な姿になっていた。

かくして蒙古・高麗の連合軍は
全体の3/4の兵士を失い
戦闘の続行が困難となり
敗残者として高麗の港に帰還する

これが蒙古の第1回日本遠征、
いわゆる文永の役である

ところで、このとき、
蒙古と高麗の連合軍は
隠岐と対馬で、
約200人の童男童女を捕らえていて
これを蒙古の太祖と皇女に
進呈したという記録があるが

この子供達は、
遠い異国の地で、
どのような運命を辿ったのだろうか?


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