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zoom RSS 「つばき」氏のコメントへの返答−「22年後のアイヌ部落再訪-金田一博士を待っていたもの 」

<<   作成日時 : 2012/09/02 11:09   >>

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一年ほど、ブログから遠ざかっていた。
先日、ひさしぶりに内容の整理をしていたら、
その間、多くの方が訪問されているのに、非常に驚いた。
その中に、2年ほど前に書いた
言語学者の金田一京助博士が、
カラフトのアイヌ部落を訪ねた時のエピソード
[異文化との遭遇−樺太アイヌ部落の金田一京助博士]に
つばき」という方から以下のようなコメントを頂いているの知った。
なつかしいです!
京助先生と子供たちとのかかわり方
これ小学校の国語の本にのっておりました。
本日NHKあのひとにあいたいの再放送は、春彦先生でした。
それ見てからこちらへまいりました。
「ヘマタ」
教科書で覚えてからもう40年もすぎましたが
ずっと心の中にありました。
(2012/01)


このコメントには思わず、胸が熱くなった。
同時に、この金田一氏のエピソードが
小学校の教科書に載っていたということに
非常な驚きを覚える。

博士が25歳のときに、初めて
カラフトの部落を訪れた折のこの
非常に興味深いエピソードは、
博士のアイヌ語研究時に出合った多くの
アイヌの方々の思い出を記した
「北の人」(絶版)から抽出したものだが、
同書には、その22年後に、
同地を再訪したときの胸をしめつけられるような記録も併録されていて
それも「22年後のアイヌ部落再訪-金田一博士を待っていたもの 」
として当ブログで紹介している。

当ブログの設定上、「つばき」氏にコメントに対する返答が
できないので、この機会に、博士の最初の訪問と
その22年後の再訪時のエピソードをまとめて再掲載して
「つばき」氏への返答にかえたいと考える

つばき 様

心のこもったコメントありがとうございました
貴下のご健勝お祈りいたします

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日本国内の著名な国語辞典の
編纂者として知られた金田一京助博士は、
アイヌの口述叙事詩「ユーカラ」の収集
でも知られるが、明治40年(1907年)
弱冠25歳のとき、カラフトのオチョポッカという
アイヌ部落に渡った。
北海道内の同民族の言語との相違を
調査するのが目的だった。

しかし、当時、和人(シャモ)は
迫害の元凶として、また、氏も
役人とみなされて、彼等から、
まったく相手にされず、誰も氏とは
口をきこうとは、しなかった。

酋長の冬季の住家を借りたが、
三度三度の食事を届けてくれる
少女は、口を聞こうともせず、
夜は、電灯もなく、暗闇と孤独の
中で、すごす日々が続く。

4日目のある日、浜辺で遊んでいる
子供達を見ていて、しようもないので
ノートに、彼等の様子をスケッチしていた。

すると、子供の一人が、
何をしているのか、と氏に近づいてきて、
その描いているものを覗き込んだ。

すると、面白いことがおきた。
金田一氏が、顔を書いて
鼻や目を書くたびに、
子供達が、それをみてなにやら
言葉を発するのである。

その一言、一言が、道内の鼻や目を表す、
アイヌ語に似ているので、
おそらく同様な意味だろうと類推する。
{これだ!}と金田一氏は、うなずく。
氏は、子供達の発する言葉を書きとめて、
次に紙面に、滅茶苦茶な線を引いた。

すると、子供達は、
ヘマタ、ヘマタ!(WHAT?)と口々に、言うので、
(道内では、WHAT=ヘマンダ
おそらく、これこそ、WHAT IS THIS?
という意味だろうと考えて、

今度は、博士の方から、
そばの石ころを拾って「ヘマタ!」と叫ぶと、
子供達も、要領がのみこめたのか、
「スマ!スマ!」(石)と叫ぶ。

そして、周囲の様々なものを
指差しては「ヘマタ?」と尋ねると、
子供達もすっかり、よろこんで、
そのたびに、その名前(名詞)を叫ぶ返す

こんな調子で、子供達とすっかりうちとけ、
さらには100あまりの単語を瞬く間に
採集することに成功する。

子供達から、使える単語を
取得した金田一氏は、
次に、大人達に、向かって
アイヌ語を使って話しかける。

すると、それまでまったく無視して
口を聞こうともしなかった
大人達の相好が崩れ、
剛直な顔に、笑顔が浮かび上がる。


彼らは、また彼等なりに
挨拶を始め、多くの言葉を教えてくれる。
それを使うと、「よくできた」
といわんばかりに、
嬉しそうな表情になる。

こんな調子で、村で出会う人々に、
覚えたての言葉で話しかけているうちに、
それまで金田一氏との間にあった
冷たい垣根が取り払われ、
あちこちで談笑の輪が広がることになる。

「・・・・一週間の後には、
私がちょっと顔を出しただけで、
右からも左からも、声をかけられる。
そしてうまく答えられたといっては、笑い、
答えられなかったといっては笑う始末。

朝には、子供達が押しかけてきて、
行く先々に、後ろからついてくる。

夜になると、がらんどうな私の宿も
身動きがとれなくなるほど、
若者や年寄りが、詰めかけてきては、
踊る、歌う、喋る。・・」


酋長の娘のヨーキという女の子などは
氏にすっかり、なついてしまい、
彼をみかけると、
いつでも駆け寄ってくるようになる。

この少女の求めに応じて、
カタカナを教えると、
帰京後に、さっそく
アイヌ語をカタカナで書いた
手紙を送ってくる。

こうして40日間の間に、
カラフトアイヌ語の
様々な調査を終え、
同地のユーカラも採集できて、
氏は、この村を去るのである。

ちなみに博士が、最北の地で、
アイヌの人達と踊りや歌の宴を
共にしていた明治40年というのは、
東京で、夏目漱石が
朝日新聞社に入社、
その第1作として「虞美人草」を
発表した年である


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、金田一博士は、
このオチョポッカ村を去った後、
何度か、再訪したいと思っていたが、
それがなかなか、かなわず
ようやく、過日の地を訪れたのは、
実に22年後の昭和4年のことだった。


先に訪問したときは、船でしか
行けなかったその村も、
今では山間部に道路が整備され、
車で1時間もすれば、行ける。

かつての部落は、完全に変貌し、
和人の住宅地と離れた場所、
漁と農業の双方が営める場所に、
アイヌ人達の、和風の家々が立ち並ぶ。

宿を提供してくれた家の中は
実にりっぱなもので、家具から布団まで
上質のものが使われ、博士を感心させる。

22年ぶりということで、
当時の人々が集ってくる。

彼の絵を覗き込んで、言葉の壁を越える
きっかけを与えてくれた子供達の2/3は、
既に死んでいるとのこと。

生き残った内の一人は、もういい大親父で、
当時、博士に食事を運んできた娘と結婚し、
日本髪にしたその彼女も、貫禄があって、
5人の子宝にめぐまれ、みな元気だと
談笑に花が咲く。

そのとき、博士はふと、
あの頃、彼の姿を見れば、
すぐに飛んできて
離れないほどに、彼になつき、
たどたどしいカタカナで、
アイヌ語の手紙をよこした、
酋長の娘で、おかっぱの、
少女ヨーキを思い出す。


―そういえば、あのヨーキちゃんは、
今、どうしてる?とみんなに問いかけると、

「・・・・それは、先ほどから茶を運んだり、
慇懃に私に会釈した婦人で、
私は、多分はこの家の兄の妻かと
思っていた人が、寂しそうに呟いた。

「先生は、もうお忘れになったでしょうね。」
私が驚いて
「おお、では、あんたが、もしやヨーキちゃんか!」
と言うと、皆、頷いて笑ったが、
私は笑えなかった。

やつれて、老けて、ただくっきりした目差しに
美しかった童女時代の面影を
偲ぶだけのその姿をみて、
村に来る途中、彼女が
「亭主運のない女で、二度、嫁いで、
二度とも夫に死なれて戻ってきている」
という話しを聞いたのを思い出したのだ。


思わず、溜息のように
「あれから、ヨーキちゃん、苦労したそうねえ。」
と私が呟くと、「はい」と小さく答えて、
うつむくその顔から、
涙がぱっと走るようにこぼれた。

私は、この人達の心の故郷に帰り
その間に流れた二十余年の歳月を、
浦島のようになげいた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こういうエピソードを読むと、
金田一京助博士という人は、
実に、りっぱな人だったのだなと痛感する。



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